その1。ぼくらのカープ
「燃える赤ヘル、僕らのカープ」
この歌のこの歌詞、学生時代に旧市民球場で歌った時、何故か涙がこぼれてきた。
当時は万年Bクラスの常連だったカープ。スタンドの観客もまばら。「熱しやすく冷めやすい広島人」なんて言うけどほんとその通りで、カープが弱ければ球場なんて行かない。今からしてみたら本当に考えられないくらいの閑散っぷりな市民球場。それでもやっぱり、この歌を歌う時の一体感こそ広島だなーって思ったし、泣けてきた理由はやっぱり広島が好きだからだろうと思う。
原爆ドームの北隣にある市民球場、これぞ広島の象徴だとずっと疑いもしなかった光景。
帰省して試合がある日には原爆ドームを1周して、セブンイレブンでつまみとビールを買って球場へ。学生の頃から市民球場最後の日までいつもこのようにしてカープを応援し続けたし、同時に「カープ、次はいつ強くなるんだろう?」毎日毎日疑問に思い続けていた。
1980年、カープが日本シリーズを連覇した年。今の若い人たちからしたら「え?カープが連覇??」
と驚くかもしれませんが、僕はこの年の10月下旬、ちょうど広島が盛り上がっている頃に広島市内の中心部・八丁堀で産声を上げました。
写真(上):生まれた頃の広島で
八丁堀の産婦人科で「モンチッチそっくりですね」と言われたらしく、並べられた構図(笑)
ぼくとカープ。いつもそばにカープがあった
物心付いてからカープを観るようになると両親からいつも
「あんたの生まれた時の広島はすごかったんよ」と言われ続けてきました。
そりゃそうですよね。当時はCS(クライマックスシリーズ)もなく、リーグ優勝したチームが必然的に日本シリーズへ行けましたから。カープの日本シリーズ制覇は79、80、84年の3回。84年は幼稚園年少であったものの、よく覚えていません・・86年と91年のリーグ優勝は覚えていますが、日本シリーズでどちらも西武ライオンズに敗れました。。
ということで、日本一の記憶は残念ながらほとんどありません。
写真(右):幼稚園に入園したころ
僕は父親の仕事の関係上、広島で生まれた後に熊本、京都、埼玉を転々とし、京都の大学を経て大阪で就職し、今は東京で生活しています。
けれどいつも帰るところは「広島」でしたので、帰って時間があれば市民球場に連れて行ってもらってましたし、回りもカープファンだらけですから生まれる前からカープファンだったのだと確信しています。試合の日は17時くらいから仕事が手につかなくなりますし、移動中でも携帯でちょこちょこ追いかけてしまいます。東京に住んでいるのに中国新聞電子版のスポーツ面は、その購読プランが出来たその日から購読していますし、自分でも気持ち悪くなるくらい、自宅の中はカープグッズで一杯です。
物心つく前にお別れしてしまった祖父や、今年初旬に天国に旅立った祖母は広島県三原市のお墓に眠っておりますが、そんな祖父母ももちろんカープファンでしたので、今年は良い報告を届けられるのではないか、今年はカープがやってくれるのではないか?そんな期待を胸に抱きつつ、これまでのカープのことや最近のカープのこと、とりとめないことも交えながら綴っていきたいと思います。
拙文で読み難く、癪に障る部分も散見されるかと思いますが、ご自身の「カープ歴」と重ね合わせながら振り返っていただけるようなゆったりした時間を共有できればと思っております。
お付き合い頂ければ幸いです。
コラム:カープ、25年ぶり悲願へ
- vol.1「ぼくらのカープ、ぼくとカープ」
- vol.2「広島とカープ、ヒロシマのカープ」
- vol.3「1991年、ぼくらのカープ」
- vol.4「メイクドラマとBクラス低迷時代」
- vol.5「2013年CS初進出そして2016年・・悲願達成へ!!」
- 番外編「優勝!!」
writer紹介
稲見 健志(いなみ たけし)
広島市出生。本籍は広島県三原市。父親の仕事の関係上、熊本、京都、埼玉を転々とし、京都の大学を経て在京の広告会社勤務。生まれながらにしてカープファンであり、現在の実家も広島市のためカープ熱が上がらんばかり。関東の球場だけでなく、広島・マツダスタジアムでも団体観戦を組んだり、居酒屋を貸し切って観戦会を主催したりしている。カープの胴上げの瞬間、どこで何をしているか分からないが、オンラインの手帳にはto doリストの一番上に5年前から「カープ優勝のために水分を溜めておく」と記している。
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